※本記事は、『科学哲学』59巻1号に掲載予定の書評の著者最終稿です。
本書は、秋葉剛史による、(分析的伝統における)形而上学の入門書である。目次は以下の通りである。
見ての通り、形而上学の入門書として非常にオーソドックスな内容となっている。各章の内容も非常に充実したもので、それぞれのトピックの基本的な事項をおさえつつ、発展的な話題(科学哲学ほか隣接分野との連続性など)にも自然と読者の関心が向くようになっており、分析形而上学に興味がある者がはじめに手に取る本として本書はこれ以上無いものと言える。評者としても、本書からは様々なことを学んだ。例えば、人の同一性や自由といった主題は、因果や部分全体関係のような主題とはどこか毛色が異なっており、それらを一括りに「形而上学」と言うことにずっと違和感を抱いていたのだが、本書はその違和感をある程度解消してくれた。詳細についてはぜひ本書を紐解いていただきたいが (pp. 26–29)、いわく、「この世界全体の見取り図を、そのなかでの私たち自身の位置づけを含めて描き出すこと」として形而上学を捉えることで、人の同一性や自由といった主題も、形而上学の一部として自然に理解できるのである。
というように、長所をあげだすときりがないのだが、この書評ではあえて、本書が抱える問題点を指摘してみたいと思う。それは、形而上学方法論ないしメタ形而上学に関する秋葉の見解にかかわる。秋葉は、形而上学の目的を、「世界の基本秩序」を明らかにすることとして定める (pp. 15–20)。ここで言う「基本秩序」には、様々な出来事が因果的な関係に立つということや、様々な個物が部分全体関係に立つことなどが含まれる。すなわち、形而上学の目的は、様々な個物や出来事がどのような秩序だった体系を形作るのかを解明することだということになる。そしてその目的のために秋葉が推す方法が、「モデルづくり」である (pp. 20–23)。つまり、「実在世界の何らかの部分や側面を(それ以外の部分や側面は捨象して)模式的に表したもの」(p. 21) としてのモデルを構築することを通じて、世界が備える基本秩序を明らかにする、というのが、秋葉の形而上学観ということである。(モデルづくりとしての形而上学という考えは比較的人気がある。例えば Paul 2012 を参照。)
ここで、上述のような主張の背後にある意図・動機を思い切って邪推してみると、それは、「モデル」という語が「科学的」な雰囲気を持っていることに由来するのではないかと思われる。モデルづくりは、典型的には経験科学において用いられる手法である。それと同様の手法が形而上学でも使えると主張することは、形而上学という学問が、各種の経験科学と同等の「しっかりした」方法によって「しっかりした」成果を上げうる、という印象を惹起するように思われるのである。しかし私は、「モデルづくりとしての形而上学」という形而上学観は、形而上学と、モデルづくりを主な方法とするようなタイプの経験科学との間の重要な違いを覆い隠してしまうおそれがあると考える。さらに、その違いというのは以下で述べるように形而上学が抱える明白な難点でもあり、それを覆い隠すことは、ある種の「誇大広告」として非難されうる。 モデルづくりには様々な側面があるが、本稿では特に次の二つに着目する。
私の考えでは、第一の側面は形而上学でも通用するが、第二の側面はそうではない。そう考える理由を以下に記す。 第一の側面は、本書の pp. 206–208 等で前面に出てきている。そこでは、
という必然性の可能世界によるモデル化が取り上げられている。さらに、分析に現れる「任意の」という量化子に課される制約によって、論理的必然性や法則論的必然性との間の関係を明確にできる、という趣旨の議論がなされている(仮に論理的必然性が無制限の量化に対応し、法則論的必然性は現実世界と同じ自然法則が成り立つような可能世界に制限された量化に対応するとすれば、前者が後者を含意するということに説明がつく)。これは、必然性というターゲット現象を、可能世界モデルによって単純化して捉えている、ということとして理解できよう。ここでは、必然性を命題が持つ性質としてモデル化しているという点、必然性に寄与するパラメーターとして可能世界だけを考慮している点などにおいて、一定の単純化が施されている。それにより、必然性が持ついくつかの側面は削ぎ落とされてしまうが、同時に、他の重要な側面(論理的必然性や法則論的必然性の間に深い関係がある、という側面など)に明快な説明が与えられている。以上の点に関しては、経験科学におけるモデルづくりと形而上学におけるモデルづくりの間にはたしかにアナロジーが成り立つだろう。
これに対して、モデルはデータをよく説明するものだという第二の側面に関しては、形而上学と経験科学との間のアナロジーは成り立たないように思われる。形而上学において「データ」と呼びうるものとしてすぐに思い当たるのは、個別事例についての私たちの直観的判断(あの人の投石があの窓の破砕の原因かどうか、記憶を引き継いでいるこのコンピュータとその記憶のもともとの担い手たるあの人は同一人物なのかどうか、等についての直観的判断)であろう。しかしながら、こうした直観的判断の集まりをモデルがいくらうまく説明したところで、そのモデルは、せいぜい私たちの概念体系を写し取ったものにしかならず(それはそれで意義はあるかもしれないが)、秋葉が設定した形而上学の目標、すなわち、世界そのものが備えた基本秩序を明らかにするという目標を達成するものにはならない。(同種の批判はこれまでも様々に提起されてきた。例えば Thomasson 2017 を参照。)
もちろん、秋葉もこの問題には気づいている。(特に因果性に関して)直観的判断を「データ」とすることについて、秋葉は次のような正当化を与えている。
私たちはしばしば、ある個別の状況で二つの出来事の間に因果関係があるかどうか、また何が何の原因であるかについて判断を下し、しかもそうした因果判断を様々な実践において活用しています——役立つものを作り出したり、有害な事態の発生を予防したり、目的に合わせてものごとの状態を制御したり、等々です。こうした実践がおおむね成功裏に行われている以上、その元となっている私たちの因果判断は基本的に信頼に足るものだと考えることは理にかなっているでしょう。そしてその信頼性は、問題の判断が明証的であるときにはとくに高いとみなすことも許されるでしょう。この限りで、因果に関する諸説の評価のために私たちの因果判断を用いることには正当性を認められるように思われます。 (pp. 83–84)
要するに、私たちは社会生活を送る上で何が何の原因であるのかについて数多くの判断を下しており、そうした判断に基づいて動いている社会はおおむね機能しているのだから、翻って、私たちの因果についての直観的判断はそれほど大きくは間違ってはいないと言えるだろう、ということである。この主張自体には異論はない。だが、このことは、世界それ自体が備えた基本秩序としての因果というものの解明という最終目的を達成することを直接的には導かない。私たちの因果判断がそれなりに信頼に足るということは、そうした判断を、いわば「探索的」な段階において用いることに一定の正当化を与えるかもしれないが、そうした判断を「検証的」な段階で用いることを正当化してくれるものではない。
以上の理由から、第二の、データをよく説明するという観点からすると、形而上学の方法としてモデルづくりを採用することには問題があると私は考える。少なくとも、「モデルづくり」という語が惹起するような経験科学とのアナロジーは、データを説明するという点では成り立たないように見える。もちろん、上述の通り、ターゲット現象を単純化して捉えるという観点からは、形而上学のモデルづくりと経験科学のモデルづくりの間にはアナロジーが成り立つ。つまるところ私が言いたいのは、形而上学の方法はモデルづくりだ、と主張する際に、秋葉は、上記の第一の側面と第二の側面の違いにもっと注意を払う必要があったのではないか、ということである。